「お茶パッケージの裏側のおはなし」



お茶のパッケージには様々な様式がある。

最近は特に世代間を問わずオシャレなものやスタイリッシュなものが好まれる傾向にあるのか、プロのデザイナーさんを淹れてしっかり作り込まれているものが多いと感じる。

デザインや色、素材など人によっては多々選ぶ基準となるものもあるのだろう。

が、実は私の目には全く表のパッケージは写っていない。笑
中身のお茶にしか興味がないからである。
もとい、お茶に優しければ良い。出荷されてから鮮度、形状そのままに我々の手に届けばそれで良い。

私個人のこだわりなど、その程度である。

しかし、今回はデザイン的なことは一切置いておいて、その裏側に注目した話である。



皆様はお茶の袋を手にした際どこをご覧になるだろうか。
よく裏側に『お茶の淹れ方』が書いてあったりしないだろうか。

そこに注目をしたことがないという方はぜひ次の機会にご覧になっていただきたい。
イラスト入りだったり文字だけだったり、細かく書いてあったり割と大雑多であったりと、様々で見ていて大変興味深い。

我々はこれを、専門店でもなかなか試飲ができない(かつ、見本の茶がない場合など)現状において、どんな淹れ方を推奨しているかにより中身の葉を見ずとも押しはかることのできる一つの目安としても役立てていることがある。

「オススメの淹れ方」により、葉の形状やどういう味向きなのかが大体わかって大変便利なものでもあると思っている。

が、中にはものすごくアバウトで、大枠だけが書かれている場合もあるので、これがどういう意味で書かれているのかをお知らせしたい。

推奨の温度帯に40度くらいひらきがある。また、その場合おそらく待ち時間(場合によっては浸出時間、蒸らし時間、抽出時間などの表記になっていたりする。この件については諸々あるので今はちょっと触れないことにする。笑)にも30秒から1分強のひらきがあるのではないかと推測する。

この場合、

○低温にしたら長めの時間で出す。
○高温にしたら短めの時間で出す。

これだけである。


また、これは好みにもよるので最初の目安として考え、これに葉の量や温度、お湯の量などを調節してより好きな味や香りに近づけていくという過程もお茶を淹れることが楽しいと思う一つになり得ると思う。

もとい、我流の淹れ方があればそれでまずは試してみるというのも、もちろん楽しみ方として最高である。

我々の場合、まずは自身の基準で、葉を見て予測を立てて淹れてみる。

パッケージに淹れ方があればそれを試す。

使い所によりレシピを調整する。

我々の仕事は大まかに、これの繰り返しである。笑



飲む人に最後の仕上げを委ねるという仕組みが或る人にとっては難しく難解でとっつきにくいものにし、また、或る人にとっては面白く興味深い研究心をくすぐられるものになる

究極の嗜好品といえばそうで、日常に当たり前に溶け込んでいるものといえばそう。

たかがお茶、されどお茶。

当たり前にそこにあるために日々、お茶について考える。


2021年12/23(木)




『つと』

岡秀行

包む-日本の伝統パッケージ展



見栄えを良くするための外装。

パッケージの概念はいつの頃からこう変わっていったのだろうと思う。

中身をよりよく見せるいわば鎧のような。


本来、ともすると過剰に包まれているように見える一つ一つは、意味のあるものであるべきなのだ。



バラバラの小さいものは持ちにくい。運搬しようと思えば尚のことで、それもこれを売り生活の糧にしようなどという時は傷が入ることなどもってのほかである。


だから包むという文化が生まれた。


米俵なんてその代表みたいなもので、小さな米粒を藁で組み立てて編んだ俵の中に詰めて運搬し、これを解体して中身を取り出し、解体された藁は焚き付けにされたりして米を炊くことに利用できたりもする。

今のように完璧な温度管理の完成された保存方法もない時代においては、実に通気性の良い天然の倉庫というイメージか。

米だって植物だから、当然のように刈りたては水分を含んでいる。

これが自然と抜けていき保存食としての顔を持つようになるには、これ以上ない場所だったのだろう。



人の手によって大切に育まれた米は、私たちをも育み、その収穫物以上の恩恵を与えやがて土に還る。


なんて無駄のない美しいサイクルだと思う。




おそらく江戸期までは包むという文化は利便性と道理を掛け合わせてそれに少しだけ色をつけるような、そんな細やかでさりげないものだったのではないかと思う。


お上に献上するとなれば、少しだけ複雑で文様が浮き出るような編み方で美しく飾る。


実用の範囲を逸脱することなく、素材でなく技術を足して、中に込めた献上品を最大限の形で受け取っていただけるように努力する。



または、包みそのものが芸術品と言えるべき美しさで、二次利用ができるであろうことを予測した作りになっているものも日本には多くあるのでは無いかと思う。


その土地の伝統工芸品を用いたパッケージは美しく、中身がなくなっても飾っておきたくなるような、自分の大切なものを入れて保管しておきたくなるようなそんな『特別感』をもつものたち。




それが日本の伝統パッケージが、『日本』たる所以なんだろう。



包みに自然のものが使われることが多いのも特徴の一つか。

その時、その時期にある自然の素材の中から殺菌性の有無や香り付けになるようなものを選び出し、上手に使っている。

伝統パッケージには、その造形もさることながらなにより実用性に目を惹かれるものが多かった。


理にかなっているのである。


その実、なぜその素材が使われたかを理解することができるし、地理的、歴史的背景から推し量ることができる。






本当の意味でのサステナブルってこういうことなんじゃないの?


と、思わせる熱い夏の1日のお話し。


2021/08/04