「お茶パッケージの裏側のおはなし」
お茶のパッケージには様々な様式がある。
最近は特に世代間を問わずオシャレなものやスタイリッシュなもの
デザインや色、
が、実は私の目には全く表のパッケージは写っていない。笑
中身のお茶にしか興味がないからである。
もとい、お茶に優しければ良い。出荷されてから鮮度、
私個人のこだわりなど、その程度である。
しかし、今回はデザイン的なことは一切置いておいて、
皆様はお茶の袋を手にした際どこをご覧になるだろうか。
よく裏側に『お茶の淹れ方』が書いてあったりしないだろうか。
そこに注目をしたことがないという方はぜひ次の機会にご覧になっ
イラスト入りだったり文字だけだったり、
我々はこれを、専門店でもなかなか試飲ができない(かつ、
「オススメの淹れ方」により、
が、中にはものすごくアバウトで、
推奨の温度帯に40度くらいひらきがある。また、
この場合、
○低温にしたら長めの時間で出す。
○高温にしたら短めの時間で出す。
これだけである。
また、これは好みにもよるので最初の目安として考え、
もとい、
我々の場合、まずは自身の基準で、
パッケージに淹れ方があればそれを試す。
使い所によりレシピを調整する。
我々の仕事は大まかに、これの繰り返しである。笑
飲む人に最後の仕上げを委ねるという仕組みが或る人にとっては難
究極の嗜好品といえばそうで、
たかがお茶、されどお茶。
当たり前にそこにあるために日々、お茶について考える。
2021年12/23(木)
『つと』
岡秀行
包む-日本の伝統パッケージ展
見栄えを良くするための外装。
パッケージの概念はいつの頃からこう変わっていったのだろうと思う。
中身をよりよく見せるいわば鎧のような。
本来、ともすると過剰に包まれているように見える一つ一つは、意味のあるものであるべきなのだ。
バラバラの小さいものは持ちにくい。運搬しようと思えば尚のことで、それもこれを売り生活の糧にしようなどという時は傷が入ることなどもってのほかである。
だから包むという文化が生まれた。
米俵なんてその代表みたいなもので、小さな米粒を藁で組み立てて編んだ俵の中に詰めて運搬し、これを解体して中身を取り出し、解体された藁は焚き付けにされたりして米を炊くことに利用できたりもする。
今のように完璧な温度管理の完成された保存方法もない時代においては、実に通気性の良い天然の倉庫というイメージか。
米だって植物だから、当然のように刈りたては水分を含んでいる。
これが自然と抜けていき保存食としての顔を持つようになるには、これ以上ない場所だったのだろう。
人の手によって大切に育まれた米は、私たちをも育み、その収穫物以上の恩恵を与えやがて土に還る。
なんて無駄のない美しいサイクルだと思う。
おそらく江戸期までは包むという文化は利便性と道理を掛け合わせてそれに少しだけ色をつけるような、そんな細やかでさりげないものだったのではないかと思う。
お上に献上するとなれば、少しだけ複雑で文様が浮き出るような編み方で美しく飾る。
実用の範囲を逸脱することなく、素材でなく技術を足して、中に込めた献上品を最大限の形で受け取っていただけるように努力する。
または、包みそのものが芸術品と言えるべき美しさで、二次利用ができるであろうことを予測した作りになっているものも日本には多くあるのでは無いかと思う。
その土地の伝統工芸品を用いたパッケージは美しく、中身がなくなっても飾っておきたくなるような、自分の大切なものを入れて保管しておきたくなるようなそんな『特別感』をもつものたち。
それが日本の伝統パッケージが、『日本』たる所以なんだろう。
包みに自然のものが使われることが多いのも特徴の一つか。
その時、その時期にある自然の素材の中から殺菌性の有無や香り付けになるようなものを選び出し、上手に使っている。
伝統パッケージには、その造形もさることながらなにより実用性に目を惹かれるものが多かった。
理にかなっているのである。
その実、なぜその素材が使われたかを理解することができるし、地理的、歴史的背景から推し量ることができる。
本当の意味でのサステナブルってこういうことなんじゃないの?
と、思わせる熱い夏の1日のお話し。
2021/08/04